名所旧跡めぐり旅行
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榎本 武揚
榎本 武揚(えのもと たけあき) 1836年 ~ 1908年
幕末から明治にかけての幕臣、政治家。
薩摩・長州藩を中心とした新政府に対して、徳川幕府の幕臣として抵抗。
北海道函館の五稜郭を中心に、北海道を独立国にしようと試みた。
しかし、新政府軍との、函館戦争に敗れ、降伏。
優秀な人物であったことから、助命され、新政府の官僚として活躍。
逓信省の大臣の際には、「〒」(郵便)のマークを新設したという説もある。

(写真は五稜郭タワー内にある銅像)
板垣 退助
板垣 退助 1837年 ~ 1919年
高知県出身の武士であり、政治家。
明治時代になってからは、自由民権運動の推進を行った。
自由民権運動というのは、明治初期の政治が薩摩藩や長州藩の人達が
主導だったため、議会を設立し国民に開かれた政治にしよう!という運動。
自由民権運動の遊説中に暴漢に襲われた際、
「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれている。
(ちなみに、この時には死んでいません。)

(写真は高知城内にある板垣退助像)
掛川城 その2
掛川城 その2 ~日本100名城-42-~
冠木門の前に到着。けっこう急な階段でした。
天守は目の前です。
天守からの眺め。山の上にあるため、周りがよく見えます。
天守からの眺め、その2。
目の前に見えている屋敷が、掛川城二の丸御殿です。
国の重要文化財に指定されています。
この御殿は、公的な式典の場所であり、藩主が住んでいた場所でもあり、
藩の政務をつかさどる場所でもあります。
掛川城 その1
掛川城 ~日本100名城-42-~
静岡県掛川市にある城。
東海道の重要な拠点とされていた。
掛川の地は、今川家の重臣、朝比奈 泰煕(あさひな やすひろ)が治めていた。
その後、徳川家がその地を統治し、家臣の石川 家成・康通が治めた。
その後、豊臣政権化では、山内 一豊がその地を治めた際に、近代的な城下町として整備され、現在の城の天守閣がつくられたと言われている。
山内 一豊が高知に移封になってからは、徳川家の譜代の大名が治めていくことになった。
なお、この時代の天守は江戸時代に地震で倒壊し、1994年(H6年)に、高知城を参考に、木造での復元がなされた。
橋を渡るころには、天守の姿が見えてきました。手前に見えるのが太鼓櫓(たいこやぐら)で、
奥に見えるのが天守です。
小高い山の上に天守がそびえています。
このように平らな土地にある山の上に城をつくった場合、
「平山城」と呼ばれています。
天守へ登る階段です。
前田 利家
前田 利家 1539年 ~ 1599年
戦国時代に活躍した武将・大名。
豊臣政権化では、五大老の一人として政務をつかさどった。
五大老とは、前田利家のほか、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(死後は上杉景勝)の5人の豊臣家を補佐する家老という立ち場の人
(現代でいうと、豊臣秀吉が内閣総理大臣とすると、それを補佐する
財務大臣などの立場)
後に、金沢を中心とした北陸の地において、加賀100万石として、加賀藩の藩祖となる。
(写真は、石川県の金沢城にある前田利家像)
千代と馬
千代と馬
山内一豊の妻、千代
その千代が、嫁入りの際の持参金(orへそくり)で買ったといわれる名馬。
この名馬を夫の一豊に渡し、夫がそれによって、戦争で武功を上げ出世していったという逸話がある。
この妻が陰ながら夫を支えることを「内助の功」といい、賢妻とされた。

(写真は、高知城内にある、千代と馬の像)
山内 一豊
山内 一豊 1545年or1546年 ~ 1605年
戦国時代の武将であり、土佐藩(現在の高知県)の初代藩主。
織田、豊臣、徳川と主君を変えながらも、最後は一国の大名として生き残った人物。
2006年大河ドラマ「功名が辻」の主人公でもあった。
一豊の妻、千代も「内助の功」として夫を支えた人物として非常に有名。
特に、嫁入りの際の持参金(orへそくり)で、夫に名馬を買い、夫の出世を影ながらささえたという逸話があり、賢妻として名高い。
高知城内には、山内一豊のりりしい騎馬武者象がある。

あまりにもかっこよかったので、違うアングルからも取りました。
騎馬武者象はかっこいいですね。

金沢城 その2
金沢城 その2 ~日本100名城-35-~
城内は非常に広いです。
鶴の丸休憩所から、橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓を撮影。
左手に見えている木造のものが、鶴の丸休憩所です。
奥にある白い建物群のうち、
手前に見えている白い建物部分が橋爪門続櫓であり、奥に見えている白い建物部分が菱櫓と呼ばれています。
この櫓と櫓を結んでいる部分が、五十間長屋と呼ばれています。
間(けん)とは、昔の長さを表す単位で、1間が約1.82メートルです。
そのため、五十間は、50×1.82=91メートルの長さということです。
現在の表現に直すと、「91メートル長屋」といった感じですね。
菱櫓を撮影。
少し離れた場所から、
橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓を中心に撮影。
金沢城 その1
金沢城 その1 ~日本100名城-35-~
石川県金沢市にある金沢城。
戦国時代では、加賀一向一揆によって、本願寺の拠点である「尾山御坊」となっていた場所。
その後、織田信長の家臣、佐久間盛政によって、尾山御坊が落とされると、「金沢城」と名称を変えました。
豊臣政権化では、前田氏がその地を治めました。
徳川政権化においても、加賀藩として、前田氏の統治が続きました。
なお、金沢城の隣には、三名園で有名な「兼六園」があります。
うっそうと茂る緑の中、石垣が静かにたたずんでいます。
右に見えている道を渡ると、石川門という城の入口になります。
石川門は重要文化財に指定されています。
目の前に見えるのが、石川門脇櫓です。
石川門脇櫓のアップです。鉛を使った瓦のため、屋根が白っぽく見えます。
津軽 為信
津軽 為信(つがる ためのぶ) 1550年 ~ 1608年
東北地方で力のあった南部氏から独立し、弘前地域を治めた戦国武将。
豊臣政権化、徳川政権化の時代を生き抜き、弘前藩の初代藩主となる。
青森県には、この津軽為信以降の津軽氏が治めた津軽地方と、
南部氏の一族が治めた南部地方とがあります。
この2つの地域が包括する青森県は、この頃の時代から互いにライバル視(敵視?)するようになったという話です。
いつの時代にも、隣町には・・・、隣県には・・・隣国には・・・と相手を見つけては、「あいつには負けたくない」というライバル視するのが人間のサガのようですね。
それが、戦争や殺し合いではない形で、結果的にお互いが高みにいけるのであれば、いいことなのかもしれませんが・・・。

(弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前の銅像)