大砲
2009年08月04日
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん) 1869年 ~ 1918年
大相撲の第18代横綱。
宮城県白石市出身。
尾車部屋。
大砲という漢字から、「たいほう」という名前かと思いきや、
「おおづつ」でした。

(写真は、宮城県白石市、白石城内にある大砲の像)
佐竹 義堯
2009年07月27日
佐竹 義堯(さたけ よしたか) 1825年 ~ 1884年

<写真は、久保田城(秋田市千秋公園内)にある佐竹 義堯の銅像>
江戸末期から明治にかけての人物。
出羽国 久保田藩12代藩主(最後の藩主)
なお、出羽国(でわのくに)は、現在の秋田県と山形県に相当する場所。
また、久保田藩は秋田藩とも呼ばれている。
関ヶ原後は、佐竹氏がこの秋田の地を治めていた。
現在の秋田県秋田市にある久保田城(現在は秋田市千秋公園)の中に
この象はある。
武田 斐三郎
2009年07月13日
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう) 1827年 ~ 1880年

(写真は五稜郭タワー内にある銅像)
日本初の洋式城郭「五稜郭」の立案・設計を行った人物。
伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)出身の学者である。
緒方洪庵の適塾で蘭学
江戸で佐久間象山から洋式兵術を学んだ。
土方 歳三
2009年07月04日
土方 歳三(ひじかた としぞう) 1835年 ~ 1869年

(写真は、五稜郭タワー内にある銅像)
江戸末期、新撰組の「鬼の副長」と呼ばれ恐れられていた。
その後、幕臣として、新政府軍と戦い、函館戦争において戦死。
土方歳三が出てくる書籍。
小説:「燃えよ剣」上・下巻 司馬遼太郎
マンガ:「陸奥圓明流外伝 修羅の刻」 2~3巻 川原 正敏
私はこの2つを読んで土方のファンになりました。
榎本 武揚
2009年07月02日
榎本 武揚(えのもと たけあき) 1836年 ~ 1908年

(写真は五稜郭タワー内にある銅像)
幕末から明治にかけての幕臣、政治家。
薩摩・長州藩を中心とした新政府に対して、徳川幕府の幕臣として抵抗。
北海道函館の五稜郭を中心に、北海道を独立国にしようと試みた。
しかし、新政府軍との、函館戦争に敗れ、降伏。
優秀な人物であったことから、助命され、新政府の官僚として活躍。
逓信省の大臣の際には、「〒」(郵便)のマークを新設したという説もある。
板垣 退助
2009年06月30日
板垣 退助 1837年 ~ 1919年

(写真は高知城内にある板垣退助像)
高知県出身の武士であり、政治家。
明治時代になってからは、自由民権運動の推進を行った。
自由民権運動というのは、明治初期の政治が薩摩藩や長州藩の人達が
主導だったため、議会を設立し国民に開かれた政治にしよう!という運動。
自由民権運動の遊説中に暴漢に襲われた際、
「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれている。
(ちなみに、この時には死んでいません。)
前田 利家
2009年06月23日
前田 利家 1539年 ~ 1599年
(写真は、石川県の金沢城にある前田利家像)
戦国時代に活躍した武将であり、大名。
織田信長に仕え、青年時代においては、非常に武勇に優れ、槍の又左衞門、
又は「槍の又左(やりのまたざ)」などの異名をもって呼ばれていました。
若い頃は、その血気の多さから、色々と失敗も多かったようです。
その後、豊臣秀吉が天下を取った際には、
五大老の一人として政治に携わりました。
後年は、非常に人徳もあり、さまざまな人に慕われていたようです。
なお、五大老とは、前田利家のほかに、
徳川家康
毛利輝元
宇喜多秀家
小早川隆景(死後は上杉景勝)
の5人の豊臣家を補佐する家老という立ち場の人をいいます。
現代でいうと、豊臣秀吉が内閣総理大臣とすると、それを補佐する
財務大臣などの各種大臣の立場をいいます。
その後に、徳川政権時代においては、石川県の金沢を中心とした
北陸の地において、加賀100万石という、大大名として、加賀藩の藩祖となります。
千代と馬
2009年06月19日
千代と馬

(写真は、高知城内にある、千代と馬の像)
山内一豊の妻の名前を「千代(ちよ)」といいます。
その千代が、嫁入りの際の持参金(orへそくり)で買ったといわれるが、馬。
貧しい中でも、この名馬を夫の一豊に渡し、
夫がその馬によって、戦争で武功を上げ出世していったという
逸話があります。
この妻が、陰ながら夫を支えることを「内助の功(ないじょのこう)」といいます。
山内一豊の妻千代は、賢妻(とても賢い、立派な女性)であったといわれています。
とてもすばらしいエピソードです。
現代でも、立派な奥様の元に、立派はご主人が
いるというものです。見習いたいものです。
山内 一豊
2009年06月17日
山内 一豊 1545年or1546年 ~ 1605年

戦国時代の武将であり、土佐藩(現在の高知県)の初代藩主。
織田、豊臣、徳川と主君を変えながらも、最後は一国の大名として生き残った人物。
2006年大河ドラマ「功名が辻」の主人公でもあった。
一豊の妻、千代も「内助の功」として夫を支えた人物として非常に有名。
特に、嫁入りの際の持参金(orへそくり)で、夫に名馬を買い、夫の出世を影ながらささえたという逸話があり、賢妻として名高い。
高知城内には、山内一豊のりりしい騎馬武者象がある。
あまりにもかっこよかったので、違うアングルからも取りました。
騎馬武者象はかっこいいですね。

津軽 為信
2009年06月14日
津軽 為信(つがる ためのぶ) 1550年 ~ 1608年

(弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前の銅像)
東北地方で力のあった南部氏から独立し、弘前地域を治めた戦国武将。
豊臣政権化、徳川政権化の時代を生き抜き、弘前藩の初代藩主となる。
青森県には、この津軽為信以降の津軽氏が治めた津軽地方と、
南部氏の一族が治めた南部地方とがあります。
この2つの地域が包括する青森県は、この頃の時代から互いにライバル視(敵視?)するようになったという話です。
いつの時代にも、隣町には・・・、隣県には・・・隣国には・・・と相手を見つけては、「あいつには負けたくない」というライバル視するのが人間のサガのようですね。
それが、戦争や殺し合いではない形で、結果的にお互いが高みにいけるのであれば、いいことなのかもしれませんが・・・。
坂本 竜馬
2009年06月13日
坂本 竜馬 1836年 ~ 1867年

(写真は桂浜にある坂本竜馬像)
高知県(旧:土佐藩)出身の幕末の志士。
幕末の志士の中でも、特に人気が高い。
これは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などによる影響も大きい。
私も好きな小説の一つです。
坂本竜馬の功績としては、
当時、犬猿の中であった、薩摩藩と長州藩を協力させることに成功し、「薩長同盟」を取りまとめた。
海運会社をいち早く組織し、亀山社中(のちに海援隊)をつくった。
船中八策という、幕藩体制の政治をやめ、日本を一つにしようとする政策を策定し、これにより大政奉還の方向へと進むこととなった。
京都の近江屋において、中岡慎太郎とともに、何ものかに暗殺される。
坂本竜馬の逸話の一つ。
あるとき、友人の一人が、腰に長い刀をさしていました。
それを見た龍馬は、
「そんな長い刀では、いざという時に役にたたないよ。」
といって、自分のもっていた手頃な刀をみせた。
「なるほど」と思った彼は、長い刀を短い刀に変えました。
しばらくして彼が龍馬に出会った時に、忠告の通り刀を変えたことを話すと、
龍馬はふところからピストルを取り出して、
「これが、ピストルという、西洋の新しい武器だ。」
と見せた。
それからしばらくしたのち、彼が龍馬と出会った時に、
「これからは、武器だけでは役にたたない、学問が必要だから、今はこれを読んでいる」
と、万国公法(国際法に関する本)を見せたという。
真実かどうかは不明だそうだが、
会うたびに、常に古きを捨て最新のものを身につけている、
さすがは坂本竜馬だ、といえる逸話である。
坂本竜馬といえば、日本で最初に新婚旅行に行ったことでも有名ですね。
ちなみに旅行先は、ハワイではなく鹿児島です。
徳川 家康
2009年05月24日
徳川 家康(とくがわ いえやす) 1543年 ~ 1616年

(写真は、静岡県の浜松城内にある銅像)
100年に及ぶ戦国の世を統一し、260年にわたる江戸幕府を開いた人物。
日光東照宮では、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として神としてまつられている。
徳川家康の遺訓と言われている名言
「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。
堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。
勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより勝れり」
天下を長期にわたって盤石なものにした徳川家康ならではの、
非常に深みのある名言です。
川中島の戦い 信玄VS謙信 一騎討ち
2009年05月16日
川中島の戦い 1561年(第4次の戦い)
武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの銅像。
写真は、八幡原史跡公園内にある銅像。

川中島の戦いというのは、1回だけでなく、第五回まで行われた。
その中で、一番の激戦であったのが、第4回目の戦いであった。
啄木鳥(きつつき)という鳥は、木の中の虫を捕まえるのに、虫のいる反対側をつついて、虫をびっくりさせ、その虫が出てきたところを捕まえるという。
その方法を啄木鳥戦法と名づけ、武田軍は上杉軍に対して行った。
具体的には、妻女山(さいじょさん)という山に布陣していた上杉軍を背後から別動隊が攻め、山を降りてきたところを、武田軍の本隊が叩くというものであった。
しかし、上杉軍はそれを察知し、別動隊が来る前にそっと山を降り、武田軍の本隊の前に姿を現した。突然の敵軍に驚く武田軍であり、そのときの戦いで、上杉謙信が単身武田の本陣まで侵攻し、馬上から武田信玄に切りかかった。その時、信玄は手に持っていた軍配でそれを受けたと言われる。
佐久間 象山
2009年05月14日
佐久間 象山(さくま しょうざんorぞうざん) 1811年~1864年

<写真は、長野県長野市にある、八幡原史跡公園内の銅像>
信濃松代藩(長野県)出身の武士
江戸末期、幕末に活躍した人物。
象山塾では、吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬などがその塾生にいたそうです。
洋学を熱心に勉強し、非常に有能な人だったが、自信過剰な面もあったようです。
武田 信玄
2009年05月06日
武田 信玄(たけだ しんげん) 1521年~1573年

<写真は、甲府駅の駅前にある像>
甲斐の国(現在の山梨県)に生まれる。
戦国最強との言われ高い、騎馬軍団を率いた。
その軍略は、織田信長や徳川家康も一目置いていた。
「風林火山」の旗印や、
上杉謙信との川中島の戦いが有名。
武田信玄には、名言も多い。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
信玄は、領国内に強固な城をつくらず、人の心をつなぎとめることで国を栄えさせた。
どれだけ立派な城を造っても、人がついてこなければ、国として成り立たない。
現在でも考えさせられる名言の一つである。
松尾 芭蕉
2009年04月18日
松尾 芭蕉(まつお ばしょう) 1644年~1694年

写真は、伊賀線上野市駅にある、松尾芭蕉像
(逆光のため見づらくてすみません・・・)
江戸時代に生きた、言わずと知れた俳句の名人。
『奥の細道』は有名な彼の作である。
伊賀の国で生まれる。
『奥の細道』では、隠密としての任務を受けていたという説や、
伊賀出身から忍者だったという説まである。
<有名な句>
古池や 蛙飛びこむ 水の音
(ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)
<私が好きな句>
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
岩手県平泉で詠んだといわれています。
戦国時代も、この芭蕉の句のような時代だったように思われます。
豊臣秀吉
2009年03月29日
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1537年~1598年

写真は大阪城内にある銅像
百姓から天下人になったため、「戦国一の出世頭」といわれる。
関白、太政大臣にまでなり、関白の地位を甥で養子の秀次に譲ってからは、
「太閤(関白の前任者の尊称)」と呼ばれる。
大阪城を中心として政治をおこなっていたため、関西(特に大阪)での人気が高いようです。
せっかくの天下も盤石なものとすることができず、次代には豊臣家は滅んでしまいます。
辞世の句 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた 夢」
